トップ » 宝謹の「こだわり日本史」 » 長篠の戦いのヒミツ

長篠の戦いのヒミツ

長篠の戦いのヒミツ

わたくし!
日本史、特に武家政権時代には、強うござりまする。
ご先祖様が武家の家柄だったせいでしょうか?
受験生時代などは、問題回答以上に記述して、教官から三重マルを戴いたほどにござりまする。だから、マークシート回答では、ヒマを持て余したものでござりました(いつまでこんな文体?「笑」)

では、
このカテゴリではブログ初の投稿となる今回、
どのような手並みか、お目にかけると致しましょお~

「長篠の戦いは、鉄砲戦術の勝利に非ず!」
お~、いきなり来ましたねぇー。
ご存知でしょうか? 長篠の戦い。
戦国時代の1575年旧暦4月、
織田信長と徳川家康の連合軍の足軽鉄砲隊が、
武田信玄の嫡男勝頼率いる騎馬隊を滅ぼした、日本史上有名な戦いです。

当時の鉄砲は一発撃ってから次の発射まで最低30秒を要しました。
筒掃除、玉込め、火薬入れ、付き固め、点火薬入れ、火蓋切り、発射。
この作業を行っている30秒の間に、騎馬隊なら馬防柵まで到達できるので、
武田方は「勝てる」と高をくくっていたわけです。しかし、
明智光秀が発案したと言われるその戦術は、
三段に構えて入れ替わり立ち替わりにすれば、
1/3の間隔で連射できるというもの。でしたよね!
案の定、武田方は壊滅的な打撃を蒙り、織田徳川連合軍の大勝利。

で!
これが何故、鉄砲戦術の勝利ではないのか?
はい、ここからが「こだわり日本史」の真骨頂にござりまする。

答えを先に言いますね。それは、
「信長のチョークポイントの選び方と引き際の勝利」だったのです。

いくら三段に構える工夫を施したとしても、それは「敵が真正面に来てくれればのハナシ」でしょ。
横や後ろから不意打ちを喰らっては、ひとたまりもないですよねぇ~。
換言すれば、
鉄砲隊の前に敵を誘き寄せる戦術が必要だったのです。
軍事用語でこれを「チョークポイント」と言いまして、
そのポイントを掴むか否かで、勝利出来るか否かが決まるのです。
厳密には長篠ではなく設楽ケ原(しだらがはら)という平野に、武田軍
を誘き出させるため、前日の雨に煙る中、いかにも織田軍がその近くに陣を張っているかのように、幟や足軽隊をチラつかせ、まんまと馬防柵の正面数キロメートルの位置に陣を張らせることに成功したのでした。信長は、これにこそ神経を尖らせ、周到に策を練ったと言われています。敵が正面にさえおれば、もう勝ったも同然!というわけでした。

次に・・・
この戦いが終わった直後、家康は更なる追い討ちを提案するのですが、
信長はそれを遮って、さっさとその場を後にします。これに対して、家康はおろか他の武将も「いまのうちに根こそぎ潰しておかないと、日を空けては厄介なのでは?」と訝しがるのですが~

ここからが信長の「うつけと天才の紙一重」と言われる所以でして~ 私はやはり天才だと思いますね!
たかが、足軽という最も身分の低い兵隊の持つ鉄砲に、馬に乗った有力有名な武将がバタバタと倒される戦況の中、それでも武田軍は「命を惜しまず名をこそ惜しんで」勇猛果敢に突撃を繰り返したのです。その勇気と覚悟は並大抵ではなかったはず!
それに引き換え、
織田徳川連合軍は、名のある武将は発射のタイミングを指揮するだけで、恐らく「戦った」という充実感は皆無に等しかったでしょう。強いて言うなら、堺を直轄地とし、原材料を輸入し、3500丁もの大量の鉄砲を職人に作らせた準備の後は、前日までチョークポイント(当時は英語ではないですが「当然」)を探っていた信長だけが、唯一必死だったくらいで・・・鉄砲足軽達も、言われるがままに馬防柵を作り、言われるがままに発射作業を繰り返し、接近戦の緊迫感もなく、気がついたら戦いは終わってた。
両軍の「覚悟度」には、雲泥の差があったわけですよ。そんな、なぁ~んとなく戦った織田徳川軍が、調子に乗ってうかうか追撃でもしたら、必死の武田軍に思いっきり反撃を喰らう。そのほうが武田軍を勢い付かせることになってヤバイと信長は感じていたから、さっさと軍を引いた。つまり「引き際」、悪く言えば「勝ち逃げ」というわけです。
さすがやねぇ~信長はん(笑)

事実は、伝わるのはほんの一部分。まして、
「歴史」と名がつくほど時間が経ってしまっては、なかなか核心部分は
後世には見えてきません。でも、チョー有名人なら、何らかの手がかりはあるし、また手がかりだと思っていたのに、後から違う裏付けがなされて定説が覆ることもあったりして、私は「歴史ってこの国で当時生きていた人の息遣いを感じて、なかなか面白いなぁ」と思います。

いかが~?