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本能寺の変のヒミツ - ???? ???
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本能寺の変のヒミツ

本能寺の変のヒミツ

「本能寺の変」
ご存知、織田信長が家臣の明智光秀の謀反に遭い暗殺された、日本史上最も有名な出来事の一つ!
ところが。
この本能寺の変、実は非常に不可解な出来事で、七不思議とさえ言われている程のものなのです。
一般に流布されている説は「光秀が信長に恨みを抱いていたから」が原因とされておりますが、これが実は真っ赤なウソ! 光秀は信長を恨んでなどいませんでした。信長の史記として最も信用できるとされる信長公記(しんちょうこうき)でさえ「日向守の恨み」とありますが、これは信長に仕えた祐筆が至って凡庸で、どうにも理由付けが難しかったので無理矢理このようにまとめたというのが、真実なんです。

では、真相は如何に?

その前に、一般説をおさらいしておきましょう。

一般説その1
重臣たちの前で辱めを受けたことを根に持っていた。
<その1の真相>
重臣たちの前ではなく、廊下で二人きりだった。それも、信長の甘えによるもので他愛の無いこと。お互いの信頼関係が揺らぐようなものではなく、光秀もスルーしている。

一般説その2
丹波での波多野兄弟との戦いで、人質に差し出した実母を、信長が敢えて見殺しにしたことに怒りを覚えた。
<その2の真相>
光秀の母は、その戦いの数年前、病死している。
人質にしたのは、光秀の血縁を装った者だった。

一般説その3
徳川家康が上京した折り、接待役を急遽解任されて立腹した。
<その3の真相>
毛利攻めを隠密裏に、しかも速やかに光秀に進めさせるため。
たとえ盟主の家康といえど、この時の毛利攻めはトップシークレット。その証拠に、信長と光秀は、解任直後から翌早朝まで徹夜の作戦密議を断行し、それ以後の信長は、家康への饗応の膳を自ら運んだりしている。理由は、この時の織田家中はあらゆる兵力が各地に散らばっており、タナボタ寸前の毛利攻めに明智軍を出せば、家康に相応しい接待役該当者がいなくなるため。
但しこの時光秀は、家臣にさえまだ真相を告げる段階ではなかったため「接待役の不手際に対しお叱りを受けた」 とその場限りの言い訳をしていることが、今日までの誤解の元になった可能性は十二分に考えられる。
それにしても、単なる感情だけで解任しながら自分が接待の代役を勤めるなど、信長でなくても馬鹿げているので、この説の信憑性も極めて低い。

一般説その4
折角手に入れた丹波、但馬を召し上げられ、まだ敵国だった毛利領の出雲、石見を「切り取り次第」と言われた事に、理不尽を覚えた。
<その4の真相>
これはその3とのリンクだが、光秀に命ぜられた毛利攻めの詳細は、山陽道を攻めていた羽柴秀吉軍に気を取られている毛利軍を、裏手の山陰道から攻め上がって挟み撃ちにするという作戦で、当時最強と言われた丹波兵団をそっくりそのまま召し抱えることを信長から許された明智軍にとっては、正に赤子の手をひねるようなもの。勝利間違いなしの作戦だった。
また、所領を召し上げられたことへの理不尽というが、召し上げられたからといって、その日から食い扶持に困るわけではない。当時、禄米は、秋の稲刈りを経て年末に翌年一年分を与えられるので、5月下旬の時点ではまだまだ貯えがあるはず。おまけに丹波、但馬と異なり、出雲には港、石見には銀山があり、年間を通じての税収はすこぶる安定しているので、秋の収穫だけに頼る山国の所領よりはるかに魅力的。これを、先の作戦とセットで与えられた光秀が、有難く思いこそすれ、恨みに思う根拠など、一体何処にあるだろうか?

如何でしょうか。

これらは歴史的根拠に基づいた説で、その筋の方(笑)なら既知の事柄ばかり・・・

では何故、光秀は信長を殺したのでしょうか?

ま、それが分からないから七不思議なんですが~

実はおこがましくも私なりの説があります。あくまで私論に過ぎませんが・・・

織田信長の生年月日は、1534年5月12日。「5」が二つ含まれています。

*3×3の升目に、左下1、左中2、左上3、中下4、中中5、中上  6、右下7、右中8、右上9、と数字を並べ、生年月日時分の数字を
 同数升に当てはめると、織田信長の場合、1,2,4,5,のスクエ アが出来ることと、5が二つ並ぶ形になります*

これは私の学んだ占星術では「天下取りだが急落の星」という暗示になっています。
「5」は、奇数個ならリーダー星であり、まして他の数字とで二つ升同士のスクエア状態になると、関わる事象が国とか世界などの非常に大きなものになります。しかし同時にこの「5」が、二つなどの偶数個になると、エネルギーが強すぎて、上昇も早い代わりに急落の可能性も同時に含んでしまうのです。

次に、
何者かが光秀をそそのかした可能性があります。
と言うのは、信長は自身の後継者を光秀と見定めておりました。当時の織田家中にあって、光秀ほど文武両道に秀で、教養や気品にもあふれる者はなく、正に武人の鑑でした。それは光秀自身にも自負としてあったのですが、これが逆効果を招いた何かがあったのではと想像します。
つまり、
自分より劣っていると見なす者が、何らかのアクションを起こしかけたために、慌てて封印しようとした行動が「謀反」だったのではないか。
では、
そそのかした、劣っている者とは?
実はいま一番有力視されている説が、羽柴秀吉ではないかと言われております・・・

いずれにせよ、信長自身の宿命が招いたもので、偶然、それも不運にも、その近くにいたのが光秀だっただけではないかと、思うのです。
そして不運といえば。
光秀は、焼け落ちた本能寺で信長の遺体を探すのですが、これがなんと、誰が何処をどう探しても見つかりませんでした。これは非常に不思議なことです。どんな猛火で高温であっても、骨くらい出てくる筈なのに・・・
ただ、これも私の持論ですが、信長は自害ではなく自決した可能性があります。自害は「切腹」ですが、自決は自分で首を切ります。出血の量が多いので、炎の温度が高ければ焼けきってしまう可能性は高いでしょう。けど・・・
忽然と消えた信長に対し、光秀は初めて「あの人は神ではなかったか」と、自分がおこした事の重大さに恐怖を覚えるのでした。その後は信長の代役を務めることも特にせず、茫然自失として日を送り、ご存知の通り、謀反から11日後、あっけない最期を遂げるのでした。

当事者でない限り、こういったことは解りませんが、ただ一つ思うのは、往々にして逸材は姿を消し、愚者のなすがままに振り回されるのが人の世の常だということです。それは、信長の後継者の地位を掴んだ秀吉の、朝鮮出兵に代表されるような愚行の数々からも明らかであるし、現代に至るその後のこの国の歩み、特に先の大東亜戦で、いったいどれほどの逸材が儚く散っていったことでしょう。

もし、いま信長が生きていたら・・・
日本が世界を取ったのは間違いないでしょうね。現代こそ彼のような勇気と英断が必要だと思います。
彼の御霊は、いま何処にあるのでしょうか~