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今回はこちらから質問「光秀と天海は同一人物?」

今回はこちらから質問「光秀と天海は同一人物?」

お久しぶりの「こだわり日本史」です(汗)

歴史には、公にできない出来事が数多く存在しています。それらをこのコーナーで取り上げて、楽しんでいこうというのがねらいです。
が。
先頃、あるテーマを知人から言われ、面白そうだったので自分なりに様々に確認してから、このコーナーで「回答」として載せようと思っていたものがありました。しかしどうにも裏づけが取れず、正直、行き詰ってしまってます。
ので今回は、
思い切って開き直り(笑)、逆にこちらから問題提起しちゃえ、っということで、こうなりました。なんか残念なような、面白いような・・・

そのテーマとは?

「明智光秀は山崎の戦いでは死なず、実は後の徳川家康のブレーンである天海僧正となって、ウラ天下を取ったという説の真偽、如何に?」

です。

これ、歴史通の間では結構、まことしやかにささやかれているようで、僕も過去に3名の人たちから「どう思う?」と問われたことがあります。
そこで、
これを確かめるのにまず僕が取り掛かったのが、本能寺の変を起こした張本人は誰か?でした。これは以前このコーナーでも取り上げ、現在ではいくつかの説があると紹介しました。
主だったものは三つ。
1)朝廷の陰謀説
2)徳川家康説
3)羽柴秀吉説
で、最も有力なのが3)であると・・・

次の段階として、山崎の戦いがあるわけですが。
光秀は夜陰に乗じて落ち延びようとした際の山科の竹薮で、土民に竹槍で刺されて落命するのですが、この後、光秀の首は秀吉のもとで首実検が行われ、間違いのないものとされているのは確かなようです。が、ここで確かであってはテーマに反しますので(笑)これは実はウソだったと仮定して、話しを進めてみます。

光秀は生きていたとして・・・

上記3)の秀吉説に結びつける~のは、はなから不自然ですよね。秀吉が山崎の戦いに臨んだ意気込みというか覚悟は、偽りのない並々ならぬもの。もしウラで結びついてたにしては、あまりに大掛かりな芝居であり、そんなことをする意味は全くありません。あれは秀吉の正真正銘本気の「弔い合戦」。そこで光秀を生き延びさせ、家康に預けるなど、秀吉にとってはわざわざ将来の敵を温存するようなもの。
換言すれば、
信長の暗殺は、天下統一の事業が大きく遠回りすることであり、それは秀吉も認識していたはず。秀吉は権謀術数を駆使し必死で信長の後継者としての地位に立ち、さてその後、家康に引き継ごうなどという考えなど絶対に無かったはずでしょう! 武人としてかなりの教養の持ち主だった光秀を、ひょっとすると自分の死後、天下を取るかもしれない家康の元に預けるなど、あの秀吉がするはずがない。

上記2)の家康説に結びつけた場合、本能寺の光秀は、堺にいる家康のセキュリティを保証すべきだと思いませんか?それをした形跡は全くない。つまり両者の口裏合わせは、なかった。命からがら逃げ帰った家康が、それを引き起こした光秀をブレーンに取り立てるなど、あまりに虫が良すぎるというか、そんな気の効かない男がブレーンに成り得るのかと、僕なら思いますよ。

また1)ですが、
朝廷に一定期間匿われていて、後日家康の元にブレーンとして行った、という考え方ですが、これも上記からして有り得ないでしょうね。第一両者はお互いに顔を見知っています。つまり家康は、自身の幼い頃から折に触れてはそばにいた隋風(天海の前名)の顔を知っているし、本能寺の変の直前、自分の接待役であった光秀の顔も、いやそれ以前の姉川の戦いの折りに親しく光秀と交誼があったことからも、やはり両者は顔を知っている。いや、両者だけではなく家康の重臣でさえ、隋風の顔も光秀の顔も知っている。
そんな光秀を、天海と変名したからとて、家康が取り立てるかしらん???
仮にこれが成るのなら、
天海が現れる同時期に隋風が死ぬか、二度と家康の前には現れないという条件が必要だと思うのですが~ ここら辺は僕には分かりませんが。

あと~もっと考えられるとすれば・・・

なんだろ?(笑)

う~ん。。。 f@_@;  ・・・っというわけで行き詰るんです。

池宮彰一郎氏の著書「本能寺」のような、従来にない別角度からの検証論でもあればそれを参考にできますが、この件に関するものは、僕の拙い検索力では見つかりませんでした。
まぁ、
この種の説は、義経がジンギスカンになったというものもあったりして、聞く分には面白いのですがねぇ~

やっぱ別人っしょ!?(笑)

っという結論は、まあ取り敢えずおあずけしておくとして。
皆さま!
この説の有力な根拠があれば、是非にもお願い申し上げます m(__)m