言葉の重み

言葉の重み

今回は、小生の思い出が発端になっているテーマです。 小学校6年生のクラス担任の先生は、体育教官でスパルタ式のいわゆる「熱血先生」でした。

面白い面もありましたが、叱られる時は大抵、ゲンコツ、平手打ち、などでした。

小生は平手打ちはありませんでしたが、ゲンコツの痛さは今でも思い出されます。

ある時、クラスの大半の児童が忘れ物をして、大勢前に立たされました。先生は、

「人間だから忘れる事はある。だが忘れないという気持ちと、その後(フォロー)が大事だ」の持論で、その全員を叱りました。

その後「もう忘れないか?」と、一人ひとりに問い正し、「忘れません」と言った者から順に席に帰しました。

小生はその時「絶対とはいえないけれど・・・」とまで言いかけて、先生に「残れ!」と一喝されました。

もう一人の女子は確か「忘れないようにしたいと思います」と言って、やはり同じように、残されました。

やがて二人はまた改めて、班ノートのたばで脳天を叩きつけられ、

「何度言ったら解るんだ! 気持ちが大事なんだ!」と叱られて、お仕置きは終わりました。

 大抵、この話しをすると、周囲の大人は「あんたも馬鹿正直だね」と一笑に附します。

確かにそうだとも言えます。いま思い出してもそれは、懐かしい気さえします。要するに、

先生の意図する言葉は「教育的指導に於ける意気込み的なもの」と捉えていたように思います。

それに比べ6年生の小生は、言葉を「責任を伴う約束的なもの」と捉えていたように思います。

つまりそこに見解の相違が在ったのでした。先生はあくまで「人間は忘れる生き物」と完璧ではない事を是認した上で、

「だからこそ意気込みが大事」と教えたかったのです。それも真理でしょう。しかし(恐らく)当時の小生の本音は、

「こんな恐い先生を前にして、忘れないという意気込みがない筈がない。

忘れた事は確かに悪い。だからと言って『絶対忘れない』などと軽々しく言うのは無責任というものではないか?」

というものだったと、今にして思います。勿論、

11や12才の当時、このようなボキャブラリーなど持ち合わせている筈もないし、そう反論したところで、

言い訳と捉えられてまた叱られるのがオチでしたでしょうから、叩かれるままにされていたのです。

上記は今になって要約した言葉ではあるのですが、何故か、小生はこの時の事をよく思い出します。そしてその度に、

「言葉の重み」というテーマと、

「忘れません」と言って早々に席に戻った同級生らの顔、そして、

脳天を班ノートの束で叩きつけられた痛さが、まざまざと蘇ってくるのです(笑)

 自分の恥ずかしい過去をして、こういうのも何ですが、しかしこれは重大な意味を持つものだと思います。

昨今、言葉はどこまでも「軽く」「無責任」になりつつあります。

宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」でも、言葉の重要さが表現されています。

『千尋が「働きたい」と言えば、魔女といえども無視は出来ない。

かたや一度でも「いやだ」と言えば忽ち動物にされて食べられる運命にある。

昨今、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られている。

それは、現実がうつろになっている反映に過ぎない。

言葉は力である事は今も真実である。ただ、力のない空虚な言葉が、無意味に溢れているだけなのだ』

(以上「千と千尋の神隠し」パンフレット中、宮崎駿氏筆より写す)

 また、政治家の発する言葉も重大であるが故に、それが覆された時の世論の憤りは非常に大きな力になってしまいます。

これを書いている現在の日本の政治状況は、

予算委員会で民主党の菅代表が小泉首相に「景気低迷に対する国債30兆円枠の増設は公約違反」と責め寄った事に対し、

首相が「大きな目標を達成するには、これくらいの事でとやかく言うべきでない」と反論した事に、

新聞各社紙面を含めた世論が一斉に猛反発し、数日後、首相は陳謝・・・という時期です。

 「出来ないなら最初からすると言うな」。これが大体、世間一般の常識です。

しかし敢えて区別するなら「意気込み的言葉」と「責任的言葉」とに別けられるのではないでしょうか。

スポーツ選手が「優勝は無理です」と言ったら、ファンはブーイングするに違いありません。

ここでは意気込み的言葉が必要です。

しかし政治家が(いや、もっと身近な例にしましょう『笑』)

会社での仕事、或いはビジネスに於いて「やります」と一度言ったら、何が何でもやり遂げなくては信用を落とします。

難しいなら「努力します」に留めるべきでしょう。ここでは現実問題ですから責任的言葉を用いるべきです。

また、入社時の面接試験などに於いてもそうです。

「どれ位勤めるつもりですか?」と聞かれて、「ここに骨を埋めます」などと答えた方が確かにウケはいいでしょう。

しかし何らかの変遷があってもし退職することになった折「君は入社時『骨を埋める』と言ったじゃないか?」と、

咎める上司が果たしているでしょうか? いればそれこそ骨のある上司でしょうが、

そこまで確りと言葉を捉える人が少ないのが事実でしょう。ならばいっそ答える方は、

「先の事は解りませんが、ここにいる限りは頑張ります」と答えた方が、誠実と言えなくはないでしょうか。

もっとも、一生懸命勤めるつもりがあるから面接に来たのでしょうから、問う側も愚問と言えなくもないかも知れませんが・・・

 小学校6年生だった小生は、子供のくせに、言葉の責任を大人並みに重く感じていたのかも知れません。

だからこそ「忘れないか?」の問いに対して「はい」とは言えなかったのです(よ)。

いやむしろ、子供らしい素直さ正直さが、恐い先生の前という極限状態(笑)で、運悪く発揮されてしまったのでしょう。

これを咎めるのは難しい判断かも知れません。

 どうとでも転びやすい言葉を信じて傷付いた場合「信じる方が馬鹿」と自責して泣き寝入りするのが殆どの昨今ですが、

では、言った方の無責任は? 「『いつかアイツも同じ目に遭うよ』と因果応報を信じる」他力本願だけでいいのでしょうか。

いいえ。人間は良くも悪くも非常に都合良く出来ているので、

傷付けた当の本人がそれを自覚しなければ、実は別に何ともならないものなのです。

だったら、自分の発する言葉にはよくよく責任を持ち、

その燐とした姿勢の波及と、そういう方々が増えることによって、周囲を浄化していく営みを続けるしかありません。

「言葉は力である事は今も真実」なのですから。

・・・しかし小生の馬鹿正直も、程々がいいでしょうねぇ~(笑)