我流
我流
「我流」。この響きに皆様は、何を連想されますでしょうか?
正式ではないとか、自分一人であみ出したものとか、師事せずに行っているものとかだと思われます。
私の手元にある広辞林では「自分ひとりでたてた流儀」、国語辞典では「自分勝手の流儀」とあります。
それからいくと私は、幸真会で行っている日本民謡に関するノウハウの殆ど、
演奏手法もそうですが、指導手法も大学の教育学部で学んだ訳でもありませんし、
運営手法に至っては当然「我流」になります。
ただそれ故に、自身の耳目、全神経、言わばアンテナを、
考え得るありとあらゆる方向に向けて、常に張り巡らせています。
父を亡くして私が後を継ぐ時、周囲の方々は「誰にも師事しない」という決断に、
こぞって反対、もしくは懐疑的でした。
この感覚は至極当然です。立場が逆だったら私も同様だったと思います。
でも時間がたつにつれてその声を、賛同へと転換することができたのは、有難いことだと思います。
思えば、
たとえ高度な大学教育を学んだとしても、経験や実践に勝るものはないのですから、
その道に対する一定の能力と、それを支える精神面での方向性というか、指針とするものさえ間違わなければ、
あとは、一時も早く経験を積むことが大事でしょう。経験に勝る学習はありませんから。
私のそれが、正しいかどうかは解りませんが、
例えば新聞一冊の中にも、ヒントは山のようにありますし、
歩く道すがらや自然の成り行きに心を致せば、必要なめぐみは無限にあることに気付きます。
それを自身が必要とする項目に照らせば、即ち何時でも何処でも、自分の中に最高の師匠があるのです。
私は少なくとも今日まで、そうやって参りました。
我流という響きに、あまり英雄的というか、賞賛を伴うイメージが少ないのは、
それで成功した例が世間には少なく、どちらかと言えば、
「やはり正式に習わないと」という印象を齎すことの方が、多いからでしょう。
しかし世間をよく見回してみますと、
キチンとした学習システムほど、逸材を出す例が少ないことに気付くものです。
勿論、成功とは、数少ない確率であるからこそ、それを成し遂げた方は「逸材」なのでしょうし、
それに至るには、やむを得ず多くのリスクは在って当然かもしれません。が、
成功を増やす、イコール、高度な教育システムの整備、と一概には言えませんし、
まして、流儀という考え方は、芸事の世界だけのような気もします。
シャープの液晶も、ホンダのエンジンも、元はアメリカの企業に馬鹿にされた事がきっかけとなり、
殆どノウハウのない手探り同然の状態から、負けん気とド根性で成し遂げたものです。
前述の辞典曰くの「自分」という定義からすれば、これらは企業という集団で取り組んだことですし、
技術開発は「流儀」ではないので、これらは当てはまらないかも知れませんが、
きっかけは誰か一人か、ごく少数である筈ですし、プロセスそのものは、涙ぐましい、文字どおりの我流と言えます。
民謡でいうなら、津軽三味線の故高橋竹山氏も、
三味線のツボの押さえ方は爪というセオリーを破って、
指の腹で押さえたことにより、柔和で哀感のある津軽の音色を実現していますし、
同じ津軽三味線の高橋裕次郎氏を始め、独学で今日の地位を築かれた方は少なくありません。
これらはほんの一例ではありますが、
私には、我流にこそ無限の夢と希望がある、法外なだけに面白さとロマンがあるような、気がします。
宮崎駿監督のアニメ映画「紅の豚」の中に、
「いいパイロットの条件は、経験ではなく、インスピレーションだ」というセリフから学ぶとすれば、
習わせるシステムを整備するのではなく、豊かな人間性を育める環境を整備することが、
よいのではないでしょうか。
それは、個人、友人、夫婦、家族、隣人、仲間、組織といった人間環境、
社会、地域、国、世界といった社会環境、そして一番大事な、自然環境に至るまでです。
反面教師も必要ではありますが、個々のインスピレーションが豊かに育つには、いささか、
昨今の状況は厳しくなってしまっています。
「習破転成」ということばがあります。
最初は習い、次にそれを破る。そして様々に転じて、そこから学んだものからやがて、成るに至る。というものです。
人間は、習えば成ると考えたいものです。または、転じないと成らないとは、経験を積んだ方の意見です。
しかし「破ることも是」とする感覚を持てる人は少ないでしょう。更に言うなら、
インスピレーションだけで成功へと突き進める人もまた、少ないものです。
これらは、環境に裏打ちされたものと、所謂「授かったもの」とがあるのですが・・・
素晴らしい我流と巡り会う時に誰もが味わう感動と楽しさが、
これから少しづつでも増えていって欲しいものです。