お茶を習う

お茶を習う

 今月からわたくし、お茶を習います。

手前共が毎年発表会をするうはらホールのある、東灘区民センターが主催する文化講座の一つ、茶道裏千家、吉村瞳先生に一期間(6ケ月)師事するのです。

 「お茶を習う」というのは、実は私の中では宿題の一つでした。

「先生の点前が見たい」とおっしゃって、私に袱紗をプレゼントして下さったかつての譜代会員さんが、その手はずを調えて下さっていた途中、あの大震災があって、あえなく頓挫。

それ以来、その方のご意向にお報いするためにも、どこかにいいチャンスはないかと、何となくではありますが気にかけておりました。

すると、今年の親睦旅行のお当番だった深江教室のY女史が、朝食の後、
「お茶でも飲みましょう」とお部屋に誘って下さったので、行ってみると、お茶はお茶でも、お抹茶!

ホテルの一室に入ると、参加なさった会員さん全てが、入れ替わり立ち代り、処狭しとひしめき合うような状態。

それに「ホントはこうするけど、今日は・・・」と、作法の殆どが省略され、時折爆笑シーンもあったのですが、いやはや、女史の粋なお計らいに、私は心底感服したものでした。

 その時私は、
「ホントはこうするけど・・・」というフレーズが、ふと気にかかりました。

「知っていて省略するのと、知らないで省略の形になるのは、大きな違いだよな」と。

そして次の瞬間、「そうだ、習う予定だったんだ」と思い出し、早速、女史にお願いして、今回の運びとなったのでした。

 9月中に、予備として2回の見学を薦められ、言われるままに参りましたが、踏み入れたその和室の中は、紛れもなく「お茶の世界」が展開しておりました。

先輩方の所作の一つひとつを拝見して、まず感じたことを私なりの一言で言うなら、「反合理主義世界」とでも申しましょうか・・・

大変無礼な言い方をすれば「回りくどい」のです。

とにかく、合理的な部分は何一つありません。しかしそれは、見方を変えれば、精神的、哲学的で、実に美しい意味のあるものと感じることができます。

例えば西洋では、バーテンダーの技能試験などもありますが、それに比べれば日本の茶道は、間違いなく世界随一、自信を持って胸を張って誇れる文化と言えます。

しかし一方で、同講師の今藤先生はおっしゃいます。

「茶道は日本の心だとか美学だとか言うけれど、そんな生易しいものじゃない。

これは亭主と客の真剣勝負。格の高い席であるほど、火花が散ってますよ」と。

うぅ~ん・・・スゴイなぁ~。

「道のつくお稽古事は新札でお月謝をお出しするのがお行儀」なのですが、そういったしきたりの背景には、このような「厳しさ」があるからこそなんですね。

 さて、10月からのお稽古に先立って、前述の見学時にいくつかの所作を習いました。

入席から退席までの一連を、各パートごとに区切ってするお稽古を、「割り稽古」と言います。この割り稽古をしっかりやっていると、やがて、所作の一連の流れは、条件反射のように出来るものだということでした。

その中で最も驚いたのが、襖の手前で挨拶をしてから立つ時でした。

普段我々は、正座から立つ時、どちらかの足を前に出して立ち上がるのですが、そうすると、着物の裾がはだけてみっともないということから、かかとを立ててから片方の膝を浮かせるのは、わずか数センチ。

この状態から「頭を吊り上げる」如く、静かに立ち上がらなければならないのです。

この説明だけではお解りづらいでしょうが、これ、物凄く太ももの筋力が必要です。

これが出来ないほど足腰が老化したら、お茶は辞めるべきだとも伺いました。

私も最初はただ「スゴイなぁ」と思って、家に帰っても必死で繰り返していたのですが、ある時点で、閃きました。

「頭を吊り上げる」という表現に、実はヒントが隠されていたのです。

頭を吊り上げよと言われると、人間は自然に背筋が伸び、前を向きます。

この時、重心を胸から背中に移動させるという意識が働くか否かがポイントなのです。

重心が前に残ったままだと、つま先の僅かな前後だけで身体を持ち上げるのは大変ですが、重心を後ろに移せば、シリモチをつくまいとする動きが生じるので、それを上方向に利用すれば、正に「頭を吊り上げる」如く、静かに自然に立ち上がれます。
 
この解釈が正しいかどうかは解りませんが、少ない言葉の意味と裏を、閃きに変えるというのも、厳しさであり楽しさだと思いました。

 かたや。

こういうセンターの文化講座で、期間限定で、しかも、お月謝は郵便振込で収めるという「手軽さ、気楽さ」も、現代社会には必須だろうと思いました。

 私が何故、こちらの茶道を受講しようとしたかというと・・・

お茶の世界はのめり込んだら大変だと、判っていたからです。

安価! 期間限定! 気遣い不要!

この三つは、私にとって絶対最低条件でした。

そしてそれは、自身の民謡会の運営にも当てはまるのです。

「入会」という響きには、どうしても嫌悪感があります。それは、「入ったら出られない。厄介そう。重たい。」というイメージがあるからです。

それを払拭しようとして、幸真会は「準会員」というシステムを作ったのですが、自身が違う世界に入ったとして置き換えて考えてみれば、やはりまだまだ一般の意識とはズレがあり、足りないものを痛感させられるものです。

私が受講の申し込みにセンター事務所に行くと、担当の方が、

「(先生から受講料を取るなんて)バチが当たるなぁ」と冗談げに言われましたが、今回、教えられる側の立場を判ろうとする意味合いも、あってのことだったのです。

 お稽古は、あさって7日から。 

さて、如何になりますやら・・・