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やはりあの日を思い出します

やはりあの日を思い出します

新潟県中越地震

 言うまでもありません。新潟県中越地震のことです。
初めてニュースで見た時は、左程に思わなかったのですが、時間が経つにつれ「これはどうやら不幸にも歴史に残る震災になりそうだ」と、思い始めたものでした。このコラムコーナーは、滅多に時事は取り上げないのですが、連日のニュースを見ていると、どうしても自分の体験とダブッてしまいますので、手前味噌ではありますが私の震災体験と平行して、お話しを進めて参ります。

揺れ

 当日直前、目は覚めておりました。やがて遠くから地鳴りのような音が聞こえました。
ただ、異口同音に語られる「次の瞬間、突然跳ね上げられた」というのは、実は私には記憶がないのです。恐らくショックで分からなかったのかも知れません。
 でも、うつ伏せて寝ていた筈が、気が付くと四つん這いの状態で、真っ暗な中で既に揺れに耐えていたのには、我ながら驚きました。
 轟音を伴って上下左右に揺さぶられ、私は正直、恐怖で大声を上げておりました。
やがて、布団を被ってないことに気付き、また足元の大きな箪笥が倒れてくる可能性にも気付き、でも今さらどうにも出来ず、必死で身構えていると、逆方向から、ガラスサッシと、粉々になった大量の土壁が、一気に全身に降り注ぎ、一瞬で生き埋めの窒息状態になりました。
 この時が一番恐ろしく苦しかったです。その直後、揺れは収まり、私は必死でもがき苦しみ、どうにか呼吸を取り戻し、激しく咳き込んでおりました。
 真っ暗であらゆる物が散乱し、床もはずれて傾き埋もれている中、隣で寝ていた母と、どうにか手を握り合い、僅かに漏れる薄暗い光を頼りに、庭から外へ出ようと試みました。
 ここまでが第一ピリオドと言える状態です。

 新潟の場合、土砂崩れと共に崩れ落ちた家屋の方々などは恐らく、これと似たような体験をなさったものと推察致します。

 最初は多分、地震だとは思えなかったのではないでしょうか?
また、外から見て左程になさそうな倒壊家屋でも、内部は重たい家具が倒れているわけですから、その下敷きで、怪我や死亡なども充分有り得ています。

初動段階

 電話、電気、水道は寸断されていますから、外部との連絡は不可能。
それならばと、その場のライフラインの確保ということになるのですが、これは一部ですこぶる手際よく進められていました。
 初動段階では、近くのガレージに近所の方々が集まり、無事だった家屋から、引き出せるだけの食料と衣服を提供していましたが、あれだけの地震だと、余震も相当なものの筈なので、余程必要な時以外は、安易に建物に近付かない、まして一人では行動しないこと。
 また周辺にはガスが充満していたので、火気は厳禁であることなどが約束されました。

 衣服の確保。寝起きばなを激震が襲い、寒中に晒されているのですから、まずは身体を温めること。

 次に食料の確保。近所の小さなお店やコンビニは、あっという間に売り切れでした。
すばやく動ける者と、そうでない者との明暗は、ここら辺から分かれていくのです。

 但し。後で返すとか、誰に借りたなどの損得勘定は、一切ありません。とにかく、その場の全員が一丸となって、この天変地異に立ち向かっていました。
 また、男性で動ける方は、知恵、体力、道具など、考えうるあらゆるものを提供し、
まだ埋もれていたり、怪我をしている方に懸命にあたっていました。

 これも恐らく、同様ではなかったでしょうか? ただ、近所との関係は、神戸では地域によって様々だったようですが・・・

避難

 やがて夜が明けて、明るくなってくると、近所同士がまとまって避難できる場所の確保へと移ります。
 こういう場合、「緊急避難場所」は大抵、小学校や中学校になります。私たちは魚崎小学校でした。
 歩いて1~2分の距離でしたが、昼ごろには既にごった返しておりました。
また、体育館には次々に遺体が運ばれており、ただならぬ雰囲気が漂っておりました。
 ここで我々はいち早く、体育館や講堂ではなく、教室を避難場所と定めました。この決断は非常に正しかったと思います。更に、教室の机とイスは、必要な数だけを残し、全て廊下に出しました。
 20名以上の大所帯ですから、この判断も奏功しています。

 この辺りから、山古志村近辺とは状況が異なると思われます。やはり、大規模なスペースがあり、すばやく動ける若者がいる都会と、山際の狭いエリアで、老化が進む過疎の村では、同じには論ぜられません。

ボランティアの皆様へ

 こういうことを綴っていくと、もう際限もなく長くなってしまいますので(汗)後は一つだけ、体験から学んだことを述べたいと思います。

 今回も、初動段階での災害や被害をギリギリで食い止めたのはやはり、自衛隊や消防、レスキュー隊などでした。道さえ寸断されているエリアに、機動的に駆けつけることが出来るのは、プロフェッショナルでなくては成しえないことです。

 そして、次に重要な役割だったのが、ボランティア要員の存在です。テレビでは、震災から一週間経って、余震も収まりかけてから、全国各地から集まってくるボランティア要員の姿が、映し出されておりました。
 それ自体は非常に奇特な行動であり、有難いには違いないのですが、本音を言うなら、ボランティアが必要なのも実は、プロが初動段階で動き出すのと同様の「最初の3日間」。それも、人足としての役割ではなく、リーダーシップを取り得る存在なのです。

 状況が収まりつつある時期に、外部から人が集まり出すと、それを手配する地元民は、ハッキリ言って厄介に思うのです。手伝う気持ちがあるなら、自分で探して行って欲しいというのが正直な気持ちです。
 一週間も経つと、地元民の疲労もそろそろピークになってくるのですから!

 その意味では、NHKで取材されていた、20歳代の若い女性~阪神淡路大震災を経験し、その体験から、地震の次の晩には現地入りしておられた、藤原奈央子さんの行動は、見事という他はないと思いました。今でも現地に留まり、リーダー的役割を担っておられるとのこと・・・ これこそ本当の「援助」だと思います。
 どうぞ、ご自身がお疲れにならないよう、お祈りしております。

 私も、避難先を訪ねて来てくれた友人が、
「FM局に知り合いがいるから何か伝えることがあれば」
と申し出てくれて、漸く
「人手が足りない。ボランティア要員を」
と要求できたのは、震災から3日目。

 そして実際に集まり出したのは、一週間目に差しかかろうとする時期でした。上記の女史も、そういった経験を踏まえてのことだと思います。
 誰でも、経験しないと分からないことはあるので、それはいいのですが、要は「どこまで本気か」 という、気持ちの問題だと思います。
 交通寸断。周辺事情不案内。余震依然活発。ライフライン復旧メド立たず・・・
「だからこそ行くのだ」
と、何人思われたでしょうか。勿論、初動段階と沈静化段階とでは、役割が違うので、一週間以後は不要というわけでは決してありませんが、もし、平生から「何かの役に立ちたい」と思っておられる奇特な方がおられるなら、この点を充分にご理解下さり、そしてまずはご自身の安全と健康を第一としながら、被災者が必要としている現場に向われますよう、お願いしたいと思います。

 ただ、誤解のないよう付け加えておきますが、あくまで、
「自分の身は自分で守る。助けてくれたならそれは有難い」
というのが基本にあるのは言うまでもありません。

 これもNHKで映し出されていたようですが、震災から2~3日後、ある若い女性が
「食料がまだ来ないんです」
と、憤っていたようですが・・・ これは間違いではないかと思われます。

 確かに、私も経験しているので気持ちは分かります。極限の現場ではなかなか難しいのですが、それでもやはり「自分の身は自分で守る」が基本なのです。
 何かあったら助けてくれるのが大前提でボランティアをと、申しているのではありませんので、ご了承戴きたいと思います。

 阪神淡路以後も、震災は何度もこの国を襲いました。人は進化する生き物です。しかし同時に忘れる生き物でもあります。でも伝えることも出来る生き物です。

 その都度、必要な、進化したノウハウが生かされるよう、希望します。

 そして末筆ながら、亡くなられた方々のご冥福と、被災された方々の一日も早い復旧を、
心よりお祈り申し上げております。