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平家が残した民謡その2

平家が残した民謡その2

このコーナーでは、日本民謡にまつわる様々な事柄を、教養的学術的な側面から捉えて、お話しして参ります。

002 3回シリーズ「平家が残した民謡」<その2>

先頃のNHK大河ドラマ「義経」は、屋島の戦いでしたね。
今回もその折りを見計らって、お送りして参ります。
屋島の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ住んだ、山深い祖谷(いや)地方・・・ その伝説を後年、地元の民が唄い継いだ民謡「徳島県の祖谷の粉引き(こひき)唄」です。

祖谷(いや)のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣(ゆ)の如く
風も吹かんのに ゆらゆらと
吹かんのに吹かんのに 風も
風も吹かんのに ゆらゆらと

前回<その1>のこきりこ節は、平家衆自らが唄い踊ったものが、後世、庶民にも、いわばダウンロードされて今に伝わっている、支配階級伝承型民謡なわけですが、この祖谷の粉引き唄、そして次回予定の宮崎県の稗搗節は、平家の落武者伝説をモチーフとし、庶民が労作唄の形をとって唄い継いだもの、即ち純粋な民間伝承型民謡と言えます。
また、
上記の歌詞は、1番(1コーラス目)として有名なものですが、下の句を繰り返す特徴があるものの、型式としては7775の甚句調と言えます。
加えてこの唄の歌詞には、巣を(ゆ)と発音すること、他のコーラスに出てくる歌詞で、同い年を(うない年)と発音することなど、この地方独特の方言も見られます。

さて。
一の谷に敗れた平家は、西国本拠地の一つとも言える、四国讃岐国(香川県)屋島へ一旦落ち延びます。源氏方は、源頼朝の命令を破り、後白河法皇から直接「検非違使判官」の任官を受けたヒーロー義経への御仕置きとして、平家追討の総大将を六男範頼に命じたのですが、山陽道、四国、瀬戸内海それぞれに平家に見方する者がいて、戦況は次第に平家に有利になっていきます。そこで改めて、義経に平家追討の総大将の役割が与えられました。義経は、二月のとある嵐の夜、平家の本陣である屋島に向って、現在の大阪市中ノ島から船出し、一の谷同様、平家の本陣を直接奇襲する作戦に出、見事成功するのですが、この奇襲部隊はごく一部の先発隊であり、海に逃れた平家を陸からは攻め切れず、本隊が現れるであろう翌日まで引き付けておくのが精一杯でした。この時、有名な「那須与一の扇の的」という出来事があり、また次回は、その彼の弟が主人公となるお話しもあります。
翌日、
源氏の本隊が水軍として現われ、本拠地を失った平家は、海戦で雌雄を決しようと瀬戸内海を西進し、最後の決戦となる壇ノ浦の戦いへと向かうのですが・・・

この時、
山奥へと分け入って落ち延びた平家の一団がおりました。彼らの向った先は、阿波国(現徳島県)三好郡西祖谷村。ここは、急な山肌~ 深い谷底~ 狭い空の風景~ 現在でこそ道路が通い、殊に秋の絶景を楽しめる観光地となっていますが、平安末期の昔などはとても通常の生活を営める環境ではありませんでした。狭く痩せた山奥の土地にしか逃げ場のなかった落武者たちは、それでも稗、粟、とうもろこしなどの栽培をしながら、必死で生き永らえようとしたのです。
そんなライフラインの不自由さも去ることながら、もう一つ、彼らを脅かしていたもの。それは、いつ襲ってくるか分からない源氏の追撃でした。そのため逧々を往来するために架けられた橋は、歌詞にもあるように「しろくちかずら」という木で作られたのです。長く丈夫な、しかし柔軟性に富む蔓(つる)で橋を作ることで、いつでも切り落として防戦することが可能でした。幸いにと言うか、源氏の襲来は記録には残っていないようですが・・・

このような「落武者伝説」が「民謡」の形になったのが、いつ頃のことかは分かっておりません。ただ、時代は経ても、この地方一帯の食生活に大した変化はなかったようで、そこに於ける「粉引き」とは、とうもろこしなどの粉を臼で引いて粉にする、若い嫁の夜なべ仕事を差しており、昼間の畑仕事などの疲れからくる睡魔に耐えるため、唄でも唄いながらと口ずさまれたのが「祖谷の粉引き唄」なのでした。
民間伝承型、しかも労作唄とはいえ、モチーフが平家という公達(きんだち)である辺り、その旋律は、しっとりとした非常に優美なものです。昔は非常に多くの歌詞が唄われていたようですが、やはり橋を渡るのに難儀したことから、一番の歌詞が唄われる頻度が高かったようです。あと、東祖谷地方にも同様のものがあったそうですが、現在は「里唄」と呼ばれて残っているそうです。

次回は
最後の決戦、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ住んだ、宮崎県東臼杵軍椎葉村(ひがしうすきぐんしいばそん)の民謡「稗搗節(ひえつきぶし)」をお送りします。