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平家が残した民謡その3 - ???? ???
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平家が残した民謡その3

平家が残した民謡その3

このコーナーでは、日本民謡にまつわる様々な事柄を、教養的学術的な側面から捉えて、お話しして参ります。

003 3回シリーズ「平家が残した民謡」<その3>

宮崎県の稗搗節

さあ! いよいよ源平最後の決戦「壇ノ浦の戦い」です。
平家が陣取った彦島は、故平清盛の三男知盛(とももり)の所領内でした。勿論、この小島だけでなく本州側にも四国側にも所領はあり、わざわざ不便な小島より、いずれかの陸に陣取ったほうが物資の補給や戦いのその日までの生活には便利だった筈。それを敢えて四方を海に囲まれた小島に陣取った理由。それは義経得意の戦法である奇襲を恐れたためでした。同時に、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に所領を持つ平家にとって、海こそ、有利に戦いを展開できる「地の利」があり、源氏方も船での戦いと考えていたので、「こたびこそは」と並々ならぬ気概で臨んでおりました。
その源氏方は、当時畿内で最大だった熊野水軍を味方につけることに成功。その他、周防や四国などの水軍も次々に加わり、船の数では平家を上回りました。そして運命の、旧暦1185年4月25日がやってきます。

初めは源氏方にとって不利な潮流でしたが、潮目が変わるまでの間、義経はなんと、船の漕ぎ手を矢で射殺すという、当時の不文律を犯す戦術に出ます。漕ぎ手を失った平家は、潮に流されるまま成す術を失い、やがて潮目が変わる時刻になると、接近戦に打って出た源氏方が一気に勝負を決めました。

こう書くと「なんだ、義経は卑怯じゃないか」 と思いますよねぇ~。

因みに、当時の戦い方を記述しておきましょう。
一言で言うなら「極めて礼儀正しい」と申しましょうか~ お互いの兵力を予め報告し合い、日時と場所まで決め合うんです。
で、両軍が戦場に着くと、まずは鬨の声を上げ、一騎打ちの者同士(初めは大将だった)が氏素性などの名乗りを上げ、鏑矢を合図に一騎打ち開始。勝った方が、弓矢、槍などでなだれ込み、騎馬武者が華々しく登場した後、敵の数が半分になったら勝ちという、本当に礼儀正しいものでした。
これに比べると義経は、奇襲や不文律を犯すなど、平家にとっては「許せない戦い方」だったでしょうね。

しかしですよ。
ここで忘れてはならないのが「平家物語」冒頭の一文です。
「驕る平家は久しからず」 そうです。平家は驕っていたのです。
その驕りぶりに泣かされ閉口した者たちは、全国に数知れず・・・ それは朝廷の帝や公家にとっても同様であったがために、後白河法皇より源氏に「平家追討」の院宣が下されたわけですから~ 言わば「自業自得」「身から出た錆」 と言えなくもないかもしれませんね。

さて。
戦いも終盤になると、安徳天皇と故清盛の妻二位尼をはじめ、主だった武将やお局たちは、海に身を投げてあえない最期を遂げるのですが、今回も、戦場を落ち延びて生き永らえようとした一団がおりました。しかもこの度は、清盛の孫にあたる鶴富姫(つるとみひめ)までいたのですから、そうそうたるお顔ぶれのご一行様であったに違いありませんね。
彼らは九州を南下し、現在の宮崎県東臼杵郡椎葉村(ひがしうすきぐんしいばむら)という山奥に隠れ住みました。<その2>でお話しした徳島県祖谷地方もなかなかの僻地ですが、こちらも段々畑に稗や粟などが細々としか育たない、貧しい土地でした。

ここで、先の屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一宗隆の弟にあたる、大八郎宗久(だいはちろうむねひさ)が、平家の追討使に任じられ、九州各地で凄惨な平家狩りが行われていたのですが、この地に逃れた平家は、もはや武家とは言いがたい落ちぶれ様で、敢えて討つまでもないほどだったそうです。
そんな中、宗久と鶴冨姫はいつしか恋仲になりました。宗久は、落ちぶれた平家同様、自分も武士を捨ててこの地で暮らそうと決意するのですが、時が経っても音沙汰ない宗久に不審を抱いた鎌倉の大将軍源頼朝は、直ちに帰還の命令を発し、宗久は涙ながらにこの地を去るのでした。そのとき鶴冨姫は、宗久の子どもを身ごもっていたのです。

庭の山椒の木 鳴る鈴かけてヨ オーホイ
鈴の鳴る時きゃ 出ておじゃれヨ

鈴の鳴る時きゃ なんと言うてでましょうヨ オーホイ
駒に水くりょと 言うてでましょヨ

おまや平家の 公達ながれヨ オーホイ
おどま追討の 那須の末ヨ

那須の大八 鶴冨捨ててヨ オーホイ
椎葉たつ時きゃ 目に涙ヨ

特に3~4番に唄われているこの悲恋物語を、平家の末裔や土地の農民などが、冬の農閑期に逧々から集まって稗搗きをする時に唄っていたのが、現在の稗搗節の原型だと言われております。
曲型は甚句調、音階は南国らしいメジャーペンタトニックで、地元でしか唄われない正調を含めて三種類の唄い方があります。
宮崎県民謡には他に、刈干切唄、日向木挽き唄、シャンシャン馬道中唄などの名曲がありますが、いずれも優美な旋律を持っていて、一度聴いたら印象に残るものばかりです。
これは恐らく、西日本各地に所領を持って栄え、また西日本各地に落ち延びて生き永らえた、平家の末裔たちの影響だと思われます。
「政治は関東、文化は関西」 と言われておりますが、それは、関東に武家政権が置かれたのが鎌倉幕府と江戸幕府、足利源氏の室町幕府は京都ではあっても出身は板東の地であったことなどに対し、1200年ものあいだ京に都があったことと、前述のように、平家の台頭と没落により、高い文化性が様々なかたちで西日本各地に波及、伝播していたからでしょう。

時代の波にのまれて敢え無く滅びた平家ではありましたが、彼らの魂は今でも「日本民謡」の中にさえ、生き続けているのです。

日本民謡四方山話~
第一回目は三回シリーズで、
「平家が残した民謡」
・こきりこ節
・祖谷の粉ひき唄
・稗搗節
をお送りしました。