平清盛の死因

平清盛の死因

「平清盛」
平家を栄達の極みに導いた、平安時代後期の武家棟梁のカリスマ。
彼とその一族が築いた文化力は、西日本の各地に今もなお、様々な形で残されております。

さて。
今回の「宝謹のこだわり日本史」は、その平清盛の死因です。

小学館などの絵本には「突如高熱に見舞われた」とあります。

少し専門的になると「その熱の原因はマラリアであった」とあります。
日本にマラリア? と思うのですが、
当時の平安京は、洛外は勿論、洛中でさえあまり安全且つ清潔な街ではありませんでした。野党や窃盗団が潜み、死体さえそのまま転がっていることも稀ではなく、まして下水道という智恵も技術もない、あらゆる危険と病原菌が常に満ちている「アブナイ大都会」(笑)だったのです。まして、京都は盆地で夏は暑く、洛外は草深い田舎そのものでしたから、マラリア蚊の存在は充分有り得ました。

一方、
論理的な角度から見れば、当時の権力者は大抵、大勢の側室を持っていたので、複数の女性との頻繁な性交渉による性病も原因の一つであることは、容易に想像できます。

ですが、もう一つ。
揺るがぬ証拠と、それに基づくある伝説があるのです。

彼が築いた様々な歴史的遺産の中に、広島県の「音戸の瀬戸(おんどのせと)があります。これは、小さな島々が林立する瀬戸内海のこの周辺一帯での、船の航行を容易にするために切り開かれた「運河」で、現在の海運に於いてもこの恩恵は計り知れません。
日本民謡でも「音戸の船唄」という竹物の唄があり、歌詞の中に「清盛塚(きよもりづか)」の名も出てきます。
この運河のそばにある高烏展望台に「平清盛公日招像(たいらのきよもりこうひまねきぞう)」が建っているのですが、これは、難渋を極めた開削工事の負担を少しでも和らげようと、沈みゆく夕陽を、扇を広げて招き返そうとしたとする実話から、建てられたものなのですが・・・

平清盛の死因。
私はこの時の行動が最大の原因だと考えております。

と申しますのは、
時代は違いますが、東北地方のある地域で、土地の大長者が「全ては自分の意のままになる」と思い込み、山のわらびをすべて採り尽くすよう命じるのですが、全てを取るには日が短すぎるとの家来の進言に、それならと山の頂上に立ち、扇をかざしながら「採り尽くせ! 夕陽を返せ!」と大音声で舞を舞ったところ、異様に赤く大きくなった夕陽の光に飲まれ、あわれにも一匹の赤とんぼに変身してしまったという伝説があります。これは長寿番組として有名な「まんがにっぽん昔ばなし」にも出てくるおはなしです。

つまり、
太陽は、月と並ぶ「神」であり、その運行には、いささかも狂いのない粛々として神聖なものであり、まして人事の営みに左右されることなど決してないものであります。それを、たった一人の人間が変えたいとしたり、そういう行動を起こすなど、罰当たりにも程があるのです。

清盛は平家。平家は武家。同じ武家に源氏がありますが、格上なのは源氏です。天皇とみなもとが同じだから源氏と名付けられたのに対し、平安京をタイラと読んだことが発端という辺りからも、それは明白です。ただ、清盛というカリスマの出現と、平治の乱で源氏に勝ったことから一気にスターダムにのし上がる彼なわけですが、時の帝を云々しようとはしても、太陽まで御するとは、あまりに行き過ぎでしょう。

上記の、高熱説と性病説とのリンクは、当時の権力者なら誰の身にも起こり得ることで、逆にもし、志や行いに間違いがなければ、むしろ何らかのご加護によって更に生き長らえたかも知れません。それが、悪いほうにリンクする不運を自らの行いで早めてしまうとは、如何にも「驕る平家は久しからず」と詠まれても致し方がないと思います。

しかし、平家の文化力は西日本の各地に今もなお残されており、その恩恵は現代にまで息づいています。壇ノ浦の戦いで本家は滅びたとはいえ、平家落人の末裔を今に名乗る一族や家族は、あまたおられます。何を隠そう、私の母の実家も、屋島の戦いで淡路島の南の沼島(ぬしま)に流れ着いた濱川(はまかわ)氏という平家の一族です。家紋は「丸に挙げ羽の蝶」なので間違いありません。沼島にたった一ケ寺ある真言宗系の神宮寺(じんぐうじ)には、沼島濱川一族の当時から現在に至るまでの過去帳が残されているのですが「全てを閲覧するには昼夜作業をして4~5日かかる」と言われたことがあります(^_^;
敗れたとはいえ、それだけ栄える素地がやはりあった一族なのだと、まざまざと思い知らされた瞬間でした。

平清盛。
晩節に不肖な部分はあったとはいえ、勿体無い人物でしたね。義経の奇襲などであえない滅び方をしたのも、その報いだったかもしれませんが、願わくばいま少し、真っ当に栄え、自然な形で政権を入れ替わっておればなぁと思うのは、私だけでしょうか・・・