真の自由
真の自由
21世紀がやって参りました。更なる努力精進に努めますので、今後も変わらぬご愛読をお願い申し上げます。
当WEBが開設してから、2度目の新年となりました。
初新年となった前回のテーマは「お金」でした。今回のテーマは「真の自由」です。
私は’90年に、先代である父を亡くしました。
生前の父から民謡に関して直接指導を受けたのは、三味線のバチの持ち方だけで、
それ以外は全く手探りの状態で今日まで参りました。
そう話すと、周囲の方々は「才能と努力の賜物だ」と賞賛して下さいます。
客観的に見て、多少はそれらもなくはないでしょう。また、科学的には「環境」が重大である事は間違いありません。
しかしそれ以外に、私が特に強く感じるのは、亡くなった父の「思い」というエネルギー。「人事を越えた力」という要因です。
子供は、親が生きている間は常に、その愛情によって守られています。
しかし、有物社会に生きる「人間」である限り、物理的には限界があります。
それがひと度、肉体という物質を脱却すると、限りなく自由な存在になります。
この存在を科学では「意識体」、宗教では「魂」と呼びます。これは、互いが思うだけで、何時でも何処でも傍にあります。
これに関しては、科学的物証もなく極めてFAZZYな感覚ですが、でも確かにそれは「有り」ます。
そして時として、生きていた時よりはるかに凄い力を発揮して、摩訶不思議な現象として表わします。
こちらが懸命になってそれを祈れば、それは限りなく自然的で何処にも負荷を生じず、誠に八方丸く収まる事とするのです。
更に収まった後、人間界なら浮世の義理で、何らかのアピールを以て、感謝の意を形で表わさなければならない筈が、
心に強く感謝を念ずれば、それで充分事足り得ます。何ともシンプルで、実に直接的な関係だと感じます。
また「真の自由」の効果は、誠に絶大です。
その瞬間以後は、TPOに応じて、その人の多少の欠点なら、曖昧な功績には、かなわなくしてしまいます。
小説「金閣寺焼失」の様に、有が無に変わった瞬間、それは永遠に美化し続け出すからなのです。
21世紀最初のテーマから前述の事柄を踏まえた時、私にとってそれは、
「終わり」でもなく「恐怖」」でもない、正に「真の自由」という意味合いなのです。換言すれば、
悟りに至る努力さえ怠らなければ、これ程の自由はありません。むしろ、
有限な肉体など不自由極まりないもの。何故なら、何時かは傷つき、やがては苦しみ、そして終わるからです。まして、
この世の悦楽など、不自由な肉体をまとわされた人間への、せめてもの神の温情に過ぎないのではないでしょうか?
真の自由を得、真の力を身につけ、愛する者、愛する事の為に、真の力を発揮する。そのために、
「高める」という努力にいそしむ・・・これこそが、
人間の究極の「生き続ける意味」の様な気がします。早く、この世のさなぎの状態から飛び立ちたいものです。
ただ、ここに挙げた例は、「死」が好結果をもたらした場合であって、決して、
全てに当てはまる事、早く死ぬべき、などと言っているのではありません。
この世には、誠に悲しい「別れ」、大変な事態を招く「死」、解放を意味するもの等、実に様々で、
私自身それらの幾つかは体験しています。
でも死んだ本人は、今の我々とは別の世界で確かに生き続けている、という認識だけは決して忘れてはいけないのです。
「死」は、本人の意識によって、如何様にも成る現象なのです。
私は「真の自由」と捉えています。