間違った譜面!?
間違った譜面!?
これは誠に申し上げにくい事なのですが、この論調が間違いである事を祈りつつも、
もし不幸にして的を得ていたのなら、民謡界の進化を促す願いを込めて、敢えて申し上げます。
三味線の譜面に、曲によって拍節感が間違って記載されているものを見かけます。
具体的には、裏拍『(英)アフタービート、(独)アウフタクト』を、表拍として記載し、
演奏者もお稽古なさる方も、その様に理解してるという事です。
主だった曲では、道南口説、本荘追分、津軽あいや節、などです。楽曲を聴くと明らかに裏拍なのですが、
これは恐らく「昔、その地域の方々には裏拍の概念がなかった」事が原因として考えられます。
それを咎めるつもりはありません。
民謡というものの土俗性や成立の背景を考えれば、それもまた一つの価値観だからです。
一方、正しく裏拍記載された楽曲譜面も存在しています。秋田船方節、山中節、磯節などがその良い例です。
しかし私は、情報化社会の現代に於いて、この完成度の違い、混在ぶりが、どうにも理解できません。
何故こういう事になるのでしょうか?
ここからは、あくまで私の想像で申し上げます。
地域によって完成度に違いがあるのは、広い意味で、それも地域性、土俗性なのでしょうが、
原因の一つに「洋楽の知識を中途半端に取り入れた事」があるのではないでしょうか。
前者3曲はどれも「弱起の曲」です。
1拍目は強拍から始まるのが楽典の基本。しかし弱起の曲は特に強く導入するので、
これを1拍目と解釈した(感じた)のではないかと考えられます。それはそれで情状酌量の余地はあるでしょう。
しかしそれでも判然としない点は残ります。前者3曲に後から追加された、太鼓伴奏です。
太鼓伴奏を聴けば、明らかに強拍弱拍を正しく感じている事が判ります。
ならば何故、解釈の異なる演奏者同士が同じ演奏が出来るのか。そして何故それがそのまま放置されたのか。
パートで拍節感が違っても、音楽としてハズレなければ良し、としたのでしょうか。
これも昔の話ならともかく、もはや現代では一刻も早く校正されるべきです。
前者3曲はどれも津軽三味線で演奏されるので「弱起」という概念は理解できる筈です。何故なら、
もともと弱拍の雌撥が1拍目、強拍の雄撥が2拍目、という演奏方法だからです。
もし、譜面の校正が実現出来ないとすれば、
「地域性による互いのプライド」かも知れないのは、両者の歴史的背景から充分想像に余りあるのですが、
あまりこだわり過ぎては「どちらもひっくるめて嘲笑を浴びる」と言っても過言ではありません。何故なら、
民謡が本当に世(世界)に出たその時、恥をかくのは、その地域ではなく、民謡界の識者であり有力者だからです。
・・・私のこの論調が間違いであれば幸いですが、
もし不幸にして正解ならばせめて、早く譜面が校正される事を祈ります。