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私が「指導者」にこだわる訳

私が「指導者」にこだわる訳

 これは、幾つかの実体験が基になっています。

1,一方と他方の橋渡し役が得意だった

2,自分が自分の為に頑張ることに魅力を感じなかった

3,予備校時代、講師の指導に感動した

4,時代のニーズを感じた

では、順を追って説明します。

1,は、中学校時代での事。

 私は、学級委員長や学年協議会役員、生徒会副会長などを歴任していました。

ある時、先生の言われる事が腑に落ちないと意見を言った生徒に対して、

その言い分を壊すことなく先生の示す方向とうまく妥協させる事ができた時があり、我ながらささやかな感動を覚えました。

また、高校吹奏楽部のOB時代、トレーナーをしていた私は、

吹奏楽コンクールやアンサンブルコンテスト、定期演奏会といった行事に対応する為に、音大生のOBらと一緒に年間計画を立て、

テクニックを高めるトレーニング方法や、指揮者の意図を理解する術、パート譜から音楽全体を把握する方法などから、

本番に対する心構えや、果ては人としての生き方にまで至る、所謂虎の巻を教えていました。

2,は、前述の経験を踏まえて。

 音楽での事なのですが、素晴しい演奏者より、出来ない者を出来るように持っていく指導手法に、魅力を感じました。

当時、仏教に興味を持っていた自分にとってこれらは、前者が小乗、後者が大乗の様にも思えたのでした。

3,予備校の講師に感動。

 高校時代、あれほど判らなくて嫌だった英語の文法を、たった二言三言で、何ともあっさりと明快に理解させる手法に、

物凄いショックと感動を覚えました。公務員って駄目だなぁ(失礼)ハングリーって大事だなぁ、と思いました。

4,そして民謡を生業とする様になって。

 たった数曲上手なだけでコンクールに入賞し有名になれば、会主になって会員を募るという現行の民謡界の慣習に、

甚だ疑問を持ちました。確かに、演奏者であれ指導者であれ、それは必要最低限の基準ではあるでしょう。しかし前述の様に、

自分が演奏する事と指導手法は別次元の話しであるし、会主になってから必要な楽器演奏の基準は、

コンクールのそれに比べれば極めて平易なものでしかありません。しかも、

コンクール審査とその人脈には、何かしら特殊で謎めいた世界を感じてしまい、本当に公正かどうか時として疑問です。

学歴のない者が学歴の矛盾を述べても説得力がないのと同じく、

私は民謡コンクール出身者ではないので、偉そうに言う資格はないでしょうけれども、しかし公正に見て、

演奏家にばかりスポットを当てないで、それらを送り出す側、つまり指導家を選りすぐる基準を創る事も、

もうそろそろ、いや早急に必要なのではないでしょうか。

 私はお教室で指導する時、三味線弾き唄いと囃子の三役、尺八の馬子唄なら尺八、唄、囃子、馬子鈴の四役、

更に、三味線の弾き唄いと太鼓の囃子付きの複合、それに唄い踊り、とこれら全ては基本的に一人でこなします。また、

解説文などを含めた独創的なプリント作り等も、システマチックマネジメントの理念に基づいて自ら実践しています。

何故なら、日本民謡の指導家を自認する以上、これらは最低限必要と、自身の経験上判断したからです。

これに、経営運営の手腕、事業センスとその戦術戦略から、人柄や運までも問うとなると、

もう単なる演奏家だけでは満ち足りない、スケールの大きな魅力を、指導家、会主という業種に感じるのです。

 現役引退後の隠居仕事では決してない「指導」という仕事。私にとっては、天職です。そして、

一貫した理念と手法に基づいた、指導者、会主、事業主に関する新しい基準を創りたい。

指導者を育てる指導家になりたいのです。

 以上「私が指導者にこだわる訳」でした。

 *演奏家を否定しているのでは決してありませんので誤解なき様にお願いします。